月光荘は一首の短歌から生まれました。
“大空の月の中より君来しや
ひるも光りぬ夜も光りぬ”
月光荘創業者の橋本兵蔵を「月光の人」と呼んで可愛がった歌人の与謝野晶子さんが、創業のはなむけに贈ってくださった歌です。そして夫の与謝野鉄幹さんが、フランスのヴェルレーヌの詩から引用して、「月光荘」と名付けてくださいました。現在のお店の入り口にある看板に書かれた「月光荘」の文字も、与謝野晶子さんによる直筆の書体です。
富山の自然豊かな環境のもとで多感な少年時代を過ごした兵藏は、やがて東京に憧れを抱くようになり、大正元年(1912年)、18歳の時に上京します。そして郵便配達夫などの仕事を転々としながら、YMCAの主事であったフィッシャー氏の九段の家に書生として住み込みで働き始めます。その時、向かいのお家に住んでいたのが、歌人・与謝野鉄幹、晶子夫妻でした。
かねてより与謝野夫妻の歌集を愛読していた兵藏は、一度でいいから会いたいと日々心をときめかせ、ある日とうとう一人で訪ねていく決心をします。
突然訪ねてきた田舎者丸出しの青年を、夫妻は嫌な顔ひとつせず招き入れてくれました。そして兵藏のことを気に入り、いつでも来なさいと言ってくれたばかりか、その後折にふれて与謝野家に集うお客様たちに紹介してくれるようになったのです。
当時夫妻は雑誌「明星」を主宰していて、家には北原白秋、石川啄木、高村光太郎などの詩人や、藤島武二、梅原龍三郎、有島生馬、岡田三郎助などの画家たち、また建築家や歌舞伎役者など、ジャンルを超えた人々が集まっていました。
なんとかこの魅力的な芸術家たちの仲間に加わって、自分のお役に立てるものがないものかと、いつの間にか考えるようになった兵蔵に、皆が助言をしてくれるようになります。
「君には色に対しての憧れがあるし、いい感覚と感性があるから、ひとつ色彩に関係する仕事をしてみてはどうだろう。」
兵藏はかねてから、画家たちが国内で売られている絵の具や画材に不満をもらしているのを知っていました。この助言がきっかけとなって、画材商になる決意を固めていきます。
そしていよいよお店を開くという時に、与謝野晶子さんが冒頭の一首詠んでくださったのです。橋本兵蔵、23歳の時でした。
トレードマークである「友を呼ぶホルン」は、与謝野夫妻を中心とした当時の文化人グループ(小山内薫、芥川龍之介、島崎藤村、有島武郎、初代猿之助、森律子、藤島武二、岡田三郎助など30数名)の方々が一緒になって考案したもので、ホルンの音のもとに多くの仲間が集まるようにとの願いが込められました。兵藏はどれほど感激したことでしょう。
店の建築設計は藤田嗣治の監修によるもので、パリの街角をそのまま移したような当時としては斬新なつくりだったので、 珍しい建築だからとさまざまな映画のロケーションとしても使われました。店員さんにも、背の高いフランス人の女性がいて、当時としてはかなりハイカラな雰囲気だったようです。
その後の金銭面を心配した与謝野晶子さんは、自分の名刺に「私の友人」と書き記したものを兵藏に持たせて、新宿中村屋のご主人である相馬愛蔵、富山出身で富士銀行創始者の安田善次郎、生活協同組合創始者の賀川豊彦らに引き合わせ、経営のイロハを学ばせます。
「売れるものを考えるのではなくて、人が喜ぶものを売ること。」
「自分で売るものは自分で作り、自信のあるものだけを売りなさい。そして売りたいがための値下げで、安売りなんかをしてはいけない。そんな絵の具にとびつく画家はきっと大成しないはずだから。どんな時でもお金の奴隷になってはいけないよ。」
そんな経営の大先輩方の言葉を胸に、月光荘は果てのない芸術の大海原へと船出したのでした。